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スロベニア、クロアチア、ユーゴスラビア編

ウイーンを出発した僕はグラーツを目指し、旅が始まる。物価の高いオースト
リアから早く出国したいが、ユーゴスラビア情勢を入手しながらの旅はとても早いとは言いがたいスピードで進んでいく。

 これから向かうスロベニア、クロアチア、ユーゴスラビアは1991年のスロベニ
ア戦争に始まり、1991年から始まったクロアチア内戦、ボスニア・ヘルツゴビナ
内戦、コソボ紛争、そして、NATOの空爆で破壊されたベオグラードなど、近年、争いが絶えない場所に行こうとしている。グラーツのユースホステルで戦況の再確認と共に彼らの民族性や宗教について、そして言語についての準備が必要だ。

 先ず、地図を広げ、暴動や紛争が起きた時にすぐに隣国に抜けられるルートを探し出す。そしてそこに面する国境情報も必要だったが、グラーツでの準備で分かった事は少ないものだった。まず、言語はスロベニア語、クロアチア語、セルビア語と全ての国の言語が違っていたが、セルビア語がどうやら共通語らしく、僕もセルビア語のレッスンを少し受け、ドイツ語の辞書とロシア語の辞書はまだ手放せそうも無い。

 宗教についてもカトリック、セルビア正教そしてイスラム教と様々に存在して
いるが、元々、紛争の要因の一つとして宗教が大きく関わっている事が分り、相手の宗教がわかるまでこちらから宗教の話をしてはいけない事もわかった。
 
 いよいよスロベニアの国境にたどり着き、あっけないほど入国審査は簡単だっ
た。しかし、道路の路肩にはドクロマークが多く立ち並んでいるところがあった。地元の人の話では、この辺り一帯ではまだ地雷が眠っており、時々不用意にドクロマークの内側に入った動物や子ども達が犠牲になっているらしい。時々道路端で立ちションする僕としては恐ろしい話だ。

 スロベニアを三日間で駆け抜け、クロアチア領に入るが、殆どスロベニアと変
わらない。違いと言えば、若干、ドイツ語の使用度が高いくらいだ。そして、この国で、ユーゴスラビアについての最終チェックをする。僕がその日泊まったのは国境近くの警察官のお父さんが経営している闇ペンション。この国では、ホテル、ペンション等を経営するときは政府からの許可が要るそうだが、何故か、警察官のお父さんは許可をもらっていない。だから、宿代は超安いのだが、「このことは言わないでくれ」と警察官氏から釘をさされる。オッケーすると同時に、隣国ユーゴスラビアについての情報をもらう。彼によると2ヶ月ほど前に戦争は終結したらしいが、破壊されたインフラについては殆ど知らないらしい。

そうか・・・翌日、国境のそばまで警察官が同行してくれるが、入管事務所には僕だけが入る。
「もし入国できなかったら帰ってこいよ」と言いながら彼は来た道を引き返す。
「おまえは日本人か」と言う入国審査官の問いに「はいそうです」といつもどおり答える。しかし、入国審査官、今までとは何か違い、電話をしている。「そっか、日本も西側諸国の陣営だった。入国はダメかな?」と思いつつ、30分ほど待たされる。入国が許可され、審査官が、「この国に自転車で来たのは戦後(と言っても2ヶ月)、君がはじめてだ」と。「ユーゴ戦争後、初めての自転車野郎か、悪くない」と思いながら、街の方向に走っていく。

 先ずは両替だ。銀行を探し、両替をしてもらおうとしたら断られる。何で?マ
ルクじゃなくてドルじゃなきゃダメ?と思っていたら銀行員が外を指差す。「闇両替」でやってくれ。「ウ???」
 外にいるアイスクリーム屋に聞くとおじさんが両替してくれた。何故なのか分
らないが、この国では銀行で両替した時のレートと、闇両替で変えたときのレートがほぼ倍近く違う。つまり、この国では公定レートと闇レートのダブルレートで成り立っているらしい。このダブルレートのお陰で僕はこの国ですこぶる贅沢が出来た。

 この国では高速道路を自転車で走っても文句は言われなかった。まだ終戦2ヶ月目だからだろうか、行政システムが崩壊している。そして、数多くの空爆でこの国のインフラは壊滅状態だ。停電が日に何度かあり、大きな橋が破壊されており、軍が総出で復旧活動している。その現場を写真に撮ろうとすると軍人がピストルを向け、警戒する。

 ベオグラードに到着してすぐに日本大使館とコンタクトを取る。この国の治安
はまだ完全には回復していないと言う理由で僕が泊まるホテルを大使館が予約してくれる。そして大使館員にこの国の両替システムを聞いたら、両替は大使館でしてくれると言う。この国では外国人が宿に泊まるときには両替証明書なるものが必要なので、それも合わせて発行してもらう。日本大使館で闇レート以上のレートで両替してもらった僕は名目上、日本大使館の職員になってしまったようだ。ベオグラードでは普段泊まらない高級ホテルに泊まり、待遇もすこぶる良いものだった。

 テレビで報道されたNATOの空爆が激しかったテレビ局、旧内務省、陸軍省
の様子を見る。そしてNATOの誤爆で破壊された中国大使館。戦争が終わっても人々は殺気だっている。夕方になると政治演説が始まり、何万人の人々がホテルの前に来ている。こうした場合、暴動に発展する恐れがある。一番良いのは、アジテーションが始まったらホテルから出ない事だ。ここベオグラードから数百キロ離れたハンガリーやブルガリアでは考えられない日常があった。

 ベオグラードを出発する時には大使館からの警告を思い出す。「絶対にボスニ
ア地域には行かないで下さい」と。ボスニアとユーゴの国境線から十キロ範囲は国連軍もどこの国の軍隊も守っていない地域であり、その区間で何があっても保障できないそうだ。(どこへ行ったって保障しないくせに)そして電話サービスも機能していないらしく、事故などが遭っても、保険会社に報告も出来ないらしい。 大使館のありがたい警告を素直に受け留めて、次の目的地、ニーシュに向かう。

やはり、道路事情を初め、基本的なインフラが崩壊している。道路もあちこちが寸断され、橋は攻撃目標にされていた為に迂回を余儀なくされる。
ユーゴスラビアではこれまでに見た事の無い現実をまざまざと見た。戦争の悪
もそうだが、それ以上に敗戦直後の人々の疲れた表情・・・僕は忘れないだろう。そして、そんな中でも、直向に生きていこうとする人々、闇両替や闇物資で当座の生活を支えている人々・・・セルビア正教、カトリック、イスラム教それぞれが反目し合い、ついには戦争になってしまった悲しい現実。人々を幸せにするはずの宗教がもたらした混乱と戦乱。僕が少し滞在しただけでは到底分りきれない悲しいお話の数々。

 相変わらず僕の自転車は南に向かっている。行きつく先はどこなのか、分らな
くなってきている。ギリシャを経由してアフリカに行くのか、ギリシャから船でイ
タリアに行くのか分らない。実際、なんだか疲れてきた。このまま南下していても良いのかな?今まで味わった事の無い感情がこみ上げてきた。
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オーストリア編

ここ、ウイーンに来てから一週間が経とうとしている。僕が泊まっているのはウイーンにあるインターナショナルユースホステル。ここの滞在期間は二週間が限度。それに午前の9時からはロックアウト(全館閉鎖となるために宿泊者は外に出なければいけない)

 僕は、先にハンガリーとの国鏡で出会ったアルバニア青年とウイーンで再会するために待っているがなかなか来ない。そう言えば、日本人にとっては楽勝で超えられるオーストリア、ハンガリーの国境はアルバニア人にとっては様々な書類が必要だということを聞いていたので、彼のおばさんが居るウイーンの電話番号に安否を確かめる。そのおばさん、英語が出来ないのでドイツ語での会話だったが、聞いてみると、一度国境に行ったそうだが書類の不備を指摘され、一度アルバニアに戻ったらしい。

 しかし、僕との約束の事をおばさんにも伝えていたらしく、出来るだけ早くウイーンに来たいという事だった。
 ウイーン滞在10日目にやっと彼からウイーンに到着したという事を聞き再会する。実はこの間僕は次の行き先の情報を集めていた。ここからドイツを経由し、アムステルダムまでは楽勝で行ける。しかし、僕は悩んだ。楽勝で行ける地域ほど金がかかる。それに西ヨーロッパには正直あまり興味が無い。地図を眺めていると僕の視界にユーゴスラビア(セルビアモンテネグロ)が目に留まる。しかし、この地域はまだ交戦中のはず。戦況を聞きにウイーンの日本大使館を訪ねる。

 ここの大使館はボスニア・ヘルツゴビナも管轄する大使館でもあり、ユーゴに付いての情報はかなり精度のあるものばかりだ。駐在武官の話ではまもなく戦争は終結するらしい。しかし、この時点ではまだ交戦中で、あからさまにユーゴ行きを非難された。そこで別の情報源であるBBC放送に尋ねるがやはり似たような情報しかない。

 このまま楽勝で行けるヨーロッパ横断の事はもはや考えには無かった。大きな本屋に行き、スロベニア、クロアチア、ユーゴスラビア、マケドニアの詳細地図を買う。でもなんだか店員の目つきが気になる。彼らにして見れば敵対地域の地図を買っている訳だから、不信に思ったんだろう。

 その地図を持って、アルバニア青年に助言を求めに言った。アルバニアはユーゴスラビアとマケドニアに隣接する国なので公の情報よりも精度には期待できると思ったからだ。彼によると、スロベニアとクロアチアまでは米ドルで両替が可能らしいが、ユーゴスラビアでは米ドルは流通しておらず、ドイツマルクでの両替になるそうだ。
あいにく僕にはマルクの手持ちは無く今まで全て米ドルで両替してきた事をアルバニア青年に打ち明けると、イスラムのコミュニティーを通してドルからマルクへ手数料なしで両替してくれる事にしてくれた。僕にとってはあり難い。なんせ、日本円からドルに両替しただけでも手数料は半端でないのにその上さらにマルクへの両替となると金が手数料によって無くなってしまう。今後の事も考え、トラベラーズチェック以外は全てマルクに両替することにした。

 ユースに戻ると今日もテレビのトップニュースはベオグラード(ユーゴスラビアの首都)への空爆の事だ。勿論、空爆のさなかをチャリで旅行する事は不可能だ。そこでスロベニア、クロアチアを時間をかけながら情報収集しつつ前進する事にする。もしかしたらユーゴで死ぬかもしれないと思った。でも、計算どおり走れる西ヨーロッパよりはマシだ。このころには既に安全な旅を欲しておらず、より尖塔的な旅になっていた。そして西ヨーロッパのユウツ。安全は保障されるものの異常な物価の高さ。国によっては日本よりも物価が高い。安宿を求め、インスタントラーメンの日々はウイーンで十分だ。

 ユースホステル滞在二週間目、僕は宿から追い出されるように再びペダルを漕いでいた。先ずはスロベニア国境に近いグラーツを目指して・・・ ウイーンに来てから毎日ワインを飲むようになっていた。時には飲酒運転しつつ僕のたびは思わぬ方向へと進み始めていた。

東欧編・ルーマニア

ブルガリアのイミグレーションを超えるとドナウ川をまたぐ橋が見えてきた。
そしてちょうど橋の真ん中に国境線がある。僕は何気なく国境線をカメラに撮ろうとしたら係官が来て「ダメだ」と言う。ドナウ川をはさんで後ろ側にはドラゴミールがすんでいるブルガリア。そして前方にはルーマニア。これからどんな人々と出会うのだろうか・・・

  橋を越えたところにはルーマニアサイドの入国管理事務所。毎度のことながら同じ事を聞かれ、同じように手続きが進む。当座の目的地はルーマニアの首都ブカレスト。しかし、日は暮れかかり、とてもこの時間からは首都には向かえないので、近くのモーテルに泊まることにする。
 この宿、見た目よりは安くて約15ドルで泊まれる。しかも、ケーブルテレビ
つき。しかしながらルーマニアの平均宿泊費は高い。田舎のビジネスホテルでは50ドル。キャンプするだけでも15ドルはかかることにあとで知ることになる。

  翌日にはブカレスト目指して走行開始。ブルガリアの首都ソフィアに並んでこ
この首都には悪いうわさが流れていた。偽警察官からパスポートを見せろと言われ、そのとおりにすると、別の警察官がパスポート不携帯で金をせびられる。又、ブカレスト駅周辺ではスリや強盗が多発しているということを聞いていたのでまずはブカレストにある日本大使館に行って情報収集しようと思い、大使館街をうろつくが日本大使館が見当たらない。そのうち現地の人が僕の持っている大使館の住所まで送ってくれるが、大使館ではないことがすぐわかる。住所は確かにあっているのだが大使館が無い。「大使館が撤退したのかなあ」と思っていたらその人が「家まで来いよ」と言いながらちゃりを車まで乗せる。「家って言ったって・・・」と思いながら車に乗り込むと町外れの巨大な集合住宅地に着いた。

  かれの仕事は弁護士。後で家族を紹介されるがそれぞれ検察官や裁判官の法曹一家であることが分かり安心する。しかし、三日後にはニューヨークに出張するらしい。だから僕がここの家に厄介になれるのも三日間だけ。その後は町の中心に行って安ホテルでも探そうと考える。ここの家ではさまざまな人が紹介される。お医者さんだったり議員だったり。まあ、僕の生活にはほとんどかかわりの無い人ばかりであったが・・・

 ホテルに移ったもののやはり宿泊費は高い。最低限の宿でも35ドルはする。
仕方なく二三日宿泊しながらブカレスト市内を見学する。案の定、偽警官が僕にパスポートの提示を求めるが「あんたが警察官であることの証名は」と聞くと何処かに行ってしまう。
 かつて冷戦時代にこの国はチャウチェスクの独裁国家だった。そのときには街の地図にもチャウチェスク城は載っていないところであったが、チャウチェスク失脚後、そこは観光名所となっていた。巨大な白に圧倒されながらも入場料を払い見学。
 一通り街を見ていよいよ出発。本来ならばドラキュラの里を経由してもいいのだが山越えが厳しく、迂回してアレクサンドリア、カラファート、そしてティミシュアラに向かうことにする。この街道はトルコからの長距離トラックの通り道でもあり、街道沿いにはトルコ人が経営するペンションや食堂が随所にある。片言のトルコ語で話しかけると店のオーナーは感激して宿泊費や食事代を受け取ろうとしない。

  ところで、このティミシュアラと言う街は大戦中に大虐殺があった街であるこ
とを後で知った。知らぬが仏、僕はそこの町のキャンプ場で優雅にアウトドアライフを楽しんでいたのだが、もし、事前に知っていたら決してキャンプなんかしなかったろう・・・
 この辺からハンガリーまでの道々にはひまわりが咲き誇っていた。「ひまわり
街道」をひたすら北西に行くとルーマニアとハンガリーの国境があるはずだ。日暮れまでには到着したい・・・


 ルーマニアの国境を越えたらいきなり自転車専用道が見えてきた。この国に入ってやっと西洋文化の匂いがしてきた。しかし、このハンガリーという国は区分的にはアジア系の国だ。そしてこの国の主要言語であるマジャール語はアジア・アルタイ語系に属する言語だそうだ。そういえば心なしか人々の顔立ちはヨーロッパ系というよりもアジア系。親近感を覚える。

 とりあえず僕は首都ブタペストを目指す。この町には貧乏旅行者にとって有名
なペンションが二つある。ペンション・マリアとテレザペンションだ。二つあわせて
「テレザ・マリア」どんなに居心地のいいペンションかとワクワクしながらブタペス
ト入りする。

 僕が選んだのは「テレザペンション」ここのペンションは大きな建物の三階の
一角にあるペンション。約十人ほどの人が泊まれるドミトリーだ。僕は自転車を一階に止め、三階まで行き、自転車が下にあることを告げると先に泊まっていた人たちが手伝ってくれる。雰囲気のよさそうなペンションと思いきや、実はこのペンションには数え切れないほどの掟がある。第一に騒がない、夜の十時以降は速やかに就寝する、中でも管理人である「テレザの機嫌を損なわないこと」これを破ったら最後、「フィニッシュ」という言葉がテレザの口から出されると即退室だ。みんなきゅうきゅうとした気分で住んでいる。

 ためしに僕はマリアハウスにも行って見た。こちらはテレザハウスとは正反対
。ユルユルしていてアジアから来た僕にとってはすこぶる居心地がいい。マリアハウスに移動しようと思いつつ自転車を再び移動させることの面倒くささから結局、テレザに落ち着くが普段はマリアハウスに入り浸り。一体、どっちのペンションの住人なんだろうと思うことも多々あった。

 ハンガリーの名所と言えば温泉。しかもなんだかすごい温泉があるらしい。何
がすごいのかまだその時点では判らなかったが取り合えず他の自転車仲間と体験ツアーに出かけた。温泉の名前は「キラーイ」なんで温泉なのにそんな名前なのか判らなかったが、まあ、現地の言葉ではちゃんとした意味があるんだろうと思いつつ温泉に向かった。

 受付で金を払い脱衣所へ・・・東洋人がそんなに珍しいのか僕たちは頭のてっ
ぺんからつま先まで舐められるように見つめられていることを感じながらあえて無視して念願の温泉に入る。すると五分もしないうちに一人の男性が擦り寄ってくる。僕は怖くなり仲間の自転車野郎に「出よう」と目配せをするが奴は気が付いてくれない
。そのうち、僕の太ももに手が伸びてきた。「エクスキューズミー、プリーズドンタ
ッチ、アイアム、ノット、ゲイ」と言うとそこに来ていたほとんどの人が僕に注目
する。(ここはそうゆうところか)と思いつつ、早々にキラーイ温泉を出る。後で
宿に帰ってその話をするとみんなから爆笑される。なんと、キラーイ温泉はその筋専門の温泉だと言うじゃないか。一言言ってくれたら行かずにすむものを、貧乏旅行者は割りと意地悪だと心から思った。

 ハンガリーの日本大使館は大使館の中でも割と規模が大きく近くには日本の食糧を売っているお店があったりレンタルできるビデオ屋さんやCD屋さんがある。しかし、キラーイを経験してしまった僕は少しでも早く旅程に戻りたかった。

 ブタペストからドナウ川沿いにスロバキアの国境すれすれのルートを走る。オ
ーストリア国境から約三十キロ手前でペンション街を見つける。何でも、このペンション街は元々アルバニア人の為のものだそうだが自転車でわざわざ日本から来たということで特別にペンションに宿泊することが出来た。ここにともっている人の多くはアルバニアからの経済難民がほとんどでオーストリアのビザ待ちの為に滞在していた。日本のパスポートを持つ僕はオーストリアのビザは必要ないのだがアルバニア人達はビザが下りるまで何ヶ月も掛かるそうだ。

 このペンションで一人のアルバニア人青年と出会う。聞けば、アルバニアでの
一日の給料は8ドル。日本円で約九百円だそうだ。それで叔母のいるウイーンに行きたいそうだが、「アルバニア人」と言うことでなかなかビザが下りない。彼によるとアルバニア人はヨーロッパにおいて差別されているらしく、また、差別や偏見が多いと言うこと。しかし、僕には彼らを差別する理由がない。それに彼は熱心なイスラム教徒。時間が来れば必ずお祈りし、僕がいくらビールを勧めても飲もうとしないまじめなイスラム教徒。僕たちはやがて友達になりおたがいのことを話すようになる。
僕は今まで旅行してきた経緯を彼はアルバニアにおいて経験してきたことを・・・

 既にこのペンション街に三週間滞在している。そろそろ出発のときだ。僕たち
は互いにウイーンでの再会を約束して僕はオーストリアとの国境を目指した。

東欧編・ブルガリア

 トルコ最後の街エデルネにはもうヨーロッパの雰囲気が漂っていた。コーランの響きよりも東方正教会の教会の多さにはびっくりした。この街に一泊しながら次の国の情報を集めたところ、ブルガリアの首都ソフィアはスリや置き引きといった軽犯罪だけではなく外国人を狙う強盗や殺人事件も多発しているらしい。その為、ソフィアを経由しないルートの設定をした。

 いつものように国境を越えるとそこはブルガリア。ヨーロッパは英語かドイツ
語で充分と思っていたが、なんと標準表記はロシア語系で使われるキリル文字。まるでパキスタンやイランの文字を見ているのと変わらない。それにこの国をはじめ、東欧の旧共産国は当時共産主義を放棄してまだ十年そこら。その為国のあちこちで崩壊の残骸が見られる。たとえば道路。この国の道路はトルコよりもひどい。また鉄道網も不十分な状態で一時間に一回、見られる程度。そして時々見られる火力発電所。この国では石炭が使われていたようだが発電所とともに朽ち果てていた。

  僕はシブチェンスキー峠を目指して走っていたが季節に合わず寒気がする。どうやら風邪を引いたらしい。大事になる前に宿をとり、宿の主人に地元での風邪の撃退法を教えてもらう。ウオッカをベースに牛乳を混ぜたカクテルでぐっとやると効果覿面と聞いてその通りにする。翌朝には元通りの体調に回復していた。
 道を進んでいると時々ジプシー(ロマ族)の人々が馬車に生活道具を積み込み移動中のところに遭遇する。ここブルガリアを初め、東欧社会では差別されがちな彼らだが何故か親しみを感じる。そういえば「母を訪ねて三千里」の主人公マルコもジプシーの劇団と一緒に行動してたっけ・・・

  峠を越えた先で地元のサイクリストの集団と出会う。彼らはこれから僕が向かう街ルセからツーリングしてきたと言う。簡単な自己紹介をした後、ルセにいたるまでの道路状況を教えてもらう。地元のサイクリスト達の中でもひときわ僕に興味を持っているようなサイクリストが僕がルセに行くまで伴走してくれる事を申し出てくれた。彼の名前はドラゴミール。気遣いはとても嬉しいのだが、そうなるとほかのメンバーと一緒に走れなくなることを伝える。何せ、彼らの乗っている自転車はスピード
が出やすくなっているタイプで僕の使っているランドナータイプとはまったく違う。
だから僕と一緒に走るということは僕のスピードに合わせることであり、かなり彼にとってストレスがたまるはず。何度も状況を説明したものの彼は僕と走ることを決めてしまっていたので、一緒に走ることになる。

 それからというもののブルガリア語ができない僕のために通訳をしてくれたり
、買い物をしてくれたりと僕のサポーターを見事にこなしてくれた。僕が遭遇した地元のサイクリスト達はブルガリア冒険連盟の人々で、ルセに到着したときは連盟の経営している直営ホテルを紹介され、また、月に一度の「冒険報告会」に招待されることになった。当日僕はヨーグルトの食べすぎで腹の調子が悪く、遅刻して出席したのだが、そこに集まっている人々は僕の自転車野郎としての経験を真剣に聞いてくれていた。

  ここルセはルーマニアとの国境の町でもある。この直営ホテルに三泊してドラゴミールと一緒に街をぶらついたり、映画を観ていたりした(と言っても英語で物語りは進行し、ブルガリア語の字幕がつくのでさっぱり意味がわからないが・・・)
 三日目の朝、僕は出発のために荷物を自転車にくくり付けてチェックアウトし
ているところにドラゴミールが来た。僕はほんのお礼のつもりで日本製のインスタントラーメンやお菓子をプレゼントしようとしたら彼は激しく泣いた。僕は本当に驚いた。?!と思いながら、そんなに日本食が嫌いだったのか?と聞くとなおさら激しく泣く。それもロビーで。「僕は彼に悪いことしたのかな?」と思いつつ、チェックアウトすることをやめ、部屋に戻ってドラゴミールから事情を聞こうと思った。
 部屋に戻るなり、「どうしたの?体調悪いの?」彼は首を振る。「そんなに日
本食が嫌いなの?」またもや彼は首を振る。「一緒に映画を観たことが悪かったの?」当然彼は首を振る。自分が彼とともに行動してきた時のことも含めて質問する。「どうして泣くの?」とうとう彼の口からはなぜ泣いたのかを聞きだすことが出来なかった。

  翌日僕は再びチェックアウトの準備をしていたらドラゴミールが現れる。「今
日は行くからね・・・」彼も国境まで行きたいと言うので一緒に国境に向かう。ブルガリアとルーマニアの国境線はドナウ川をつないでいる橋の真ん中が国境線になる。だから現実には国境線からはるか手前で出国手続きが行われる。国境事務所の隣には売店や両替商の店が立ち並ぶ。僕にとって国境を超えたらブルガリアの通貨はただの紙切れになる。僕は今までのお礼にと思い、持っていたブルガリア通貨をドラゴミールに渡そうとするとまた泣きっ面になる。僕は仕方なく国境の売店でタバコワンカートンを買い、ドラゴミールに見せる。「これで良いんだろ!」彼がうなずく。この時に彼が前日に僕の前で涙した理由が判った。純粋な善意の中にある確実なプライド。
 彼も橋の真ん中まで行きたがったので国境事務所の人間に一応希望を出す。やはりだめで、国境事務所でさよならした。僕は今でも思い出す。ドラゴミールの純粋な善意とプライドを・・・
 確かに国境線は橋の真ん中に書かれていた。振り返るとドラゴミールがすんでいる町と一緒に走ったブルガリアの大地が見える。今度は僕の涙がこぼれた。それでもルーマニアサイドの国境事務所に向かっている。後にも先にもこんな出会いと別れは無かった。

 目の前にはルーマニアの大地が見えてきた。とりあえず首都ブカレストに向か
うことに決め、入国審査を待っていた。

トルコ・イスタンブール編

ここトルコでは、大多数の人々がイスラムの教えを信じているのにもかかわらず、トルコの憲法では「信教の自由」が保障されている。イランやパキスタンではイスラム教が国教であり、更に信者に負担を強いさせる厳格な律法が事実上の法律であり、多くの人々はイスラム教をもっと開放的にしてもらいたい。と言う声を多く聞いていたがトルコではまったく正反対の現象が見られた。
人々はトルコに存在するイスラム勢力の強化と戒律の厳格化を叫ぶ人達が多い。

  イスタンブールは昔からアジアとヨーロッパを結ぶ地点として宗教に限らず、商業や文化の交差点としての役割を果たしてきた。それは現代に至るまで同じようで、観光地として有名なグランドバザールには、アジアから、ヨーロッパから、そしてアフリカからの品物があふれていた。そして、地方から出稼ぎに来る観光客相手のカーペット店。中には悪質な店も多い。「日本人」と見ると、「アルカダッシュ、アルカダッシュ」(友達、友達の意)と言いながら近づき、チャイを飲もうと言いながら自分の店に連れて行き、完全な密室の中で強引な商売が始まる。
  更に、旅行者にとっては無くてはならないもの、旅行代理店の悪質さについてはインドの代理店以上に悪質であることは、アジア、ヨーロッパを旅行しているものならたいてい知っている事実だ。予約していた飛行機に乗れないなんて言うのはまだましな方で、代金を払ったにもかかわらず、現地についてからのエスコートが無く途方にくれてしまう旅行者の話や、クレジットカードのスキミング、飲み物に睡眠薬を混ぜ、友達を装いながら睡眠薬を飲ませ、金や、カード、パスポート等を全て奪われてしまう睡眠薬強盗。何でもありだ。

  ある日、僕はいつものように町をフラフラしていると早速、悪質カーペット商人の登場だ。「君は日本人か?」「そうだよ」と答えると「一緒にチャイでも飲まないか?」と早速誘われる。しかし、僕は彼らの弱点を知っている。それは、日本人以上に匂いに対して敏感なことを・・・トルコも羊を使った料理が多いせいか、食事の後や、バスに乗った後には必ず「コロン」を降りかけてくれる。僕は悪質カーペット店屋に会うたびに、「一緒に飲んでも良いけど、君、シャワー浴びてないだろ!だって、ケバブ臭いんだもん。鼻が曲がる!」と言うと、ほぼ間違い無く悪質商人は退散してくれる。運悪く引きずり込まれた場合は、「日本の場合、大きなお金を支払う場合、先ず、先行投資するという習慣がある。君は僕にどこのホテルでディナーを食べさせてくれる?」とたたみ掛ける。こちらとしては「チャイなんかではごまかされないぞ」と言うモードに持っていく。これで99パーセントの悪質な人々から自分の金を守れる。
 
  しかしこのイスタンブールは実に美しい。教会になったりイスラム寺院になったりを繰り返してきたブルーモスク。そして中心部の場所は中世から変わらぬ町並み。どれもエキゾチックな雰囲気を漂わせている。
 この町にも日本人旅行者ご用達宿が存在する。その中の「コンヤペンション」に宿を取る。場所柄、アフリカから、ヨーロッパから、アジアから、アメリカなどを旅してきた人々の交差点。それが「コンヤペンション」だった。お陰で世界の旅行の仕方や情勢がフレッシュなものが多く手に入る。中でもアフリカの拠点であるエジプトからの情報量が物凄い。ここからエジプトを経由してアフリカに向かう人々にとっては最高の情報量と質がある。しかし、僕にとって当座必要な情報はヨーロッパの情報だ。中でもアルバイト情報が無いか丹念に「情報ノート」を見る。しかし、当時のヨーロッパに関する情報の中心はユーゴスラビアに対するNATOの空爆についてだけであった。ヨーロッパに向かう以上、どこかの国でアフリカ戦に向けてどうしてももっと資金が必要だったからである。ロンドン、パリ、ベルリン等は、外国人に対する差別があるらしく、バイトには向かないことだけはこの時点で判明していた。
しかし、思っていなかった都市、ベルギーの首都ブリュッセルにおいて、また、オランダのアムステルダムにおいては日本会もしっかりしたものがあるらしく、商社やそこの社員向けの日本食レストランが多数あり、働きやすいと言う情報も入ってきた。
「向かう先はアムステルダムかブリュッセルかな?と思いながら地図を見ていると、やはり僕と同じようなルートでアジアを横断してきた青年と出遭った。彼もこれからバリを目指して走るそうだ。何日か一緒に飯を食ったり、自転車の整備をしたりしていたが彼のほうが先に出発する。

 イスタンブールでルーマニアのビザを取り終えるとブルガリアに向けて出発する。これでしばらくはイスラム文化圏とはかかわりが無くなる。毎朝4時半には聞こえていたコーランもしばらくは聞けないと思うと少し淋しい気がする。数多くの戒律の下にありながら僕を快く歓待してくれた人々の顔が目に浮かんだ。トルコ最後の町エデルネではまだコーランが鳴り響いている。社会主義を放棄してまだ十年しか経っていないブルガリアはもうすぐだ。「一体、そこの国では誰が僕のことを待っているんだろうか?」そんなことを考えながらゆっくりとペダルを漕ぎ出した。

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